昨今の和のブームの中で、藍染めも見直されてきております。
それは時代の流れとともに埋もれることなく現在も存在していることであるからだと思います。豊かさ便利さの中で消えることなく継承されてきた藍染めは、人々を惹きつけるものがあったらに違いありません。
では藍染めはいつから使用されるようになったのか?ここでは歴史と紺屋の染色人が信仰したといわれている神様についてご紹介していきたいと思います。

●藍染めの歴史
●武州正藍染めの歴史
ここ行田・羽生・加須を中心とする埼玉県北部地域は、江戸時代に綿の一大産地でした。そして、行田から4km程行った利根川流域では、藍が盛んに栽培されていました。
この綿と藍が結びついて始まったのが武州藍染の起こりだと言われています。
*ちなみに、田山花袋の「田舎教師」という小説の一節に「四里の道は遠かった。途中に青縞の市の立つ羽生の町があった。」というくだりがあるのですが、武州藍の市のことなんです。
江戸時代から明治にかけて、羽生は8の日、行田は6の日、騎西(きさい)は7の日などと決められ、藍染織物の市が立っていました。この藍染の織物ですが、農家が糸を買って藍染屋(紺屋:こうや)に染めてもらい、これを農閑期や夜なべ仕事で織った訳です。そして織り上がると、青縞の市に出す。
これを買う商人がいまして(これを「縞買い」という)、買った青縞で足袋をつくった。これが、いわゆる行田足袋の発祥です。
農家が栽培した藍を買い集めるのが「藍問屋」といわれる製造問屋です。この藍問屋は、藍を買い集めるだけでなく、藍を発酵させて藍玉をつくります。この藍玉をつくるには、高度なノウ・ハウが要ったのです。
つまり、藍問屋は、買い集めた藍に、発酵技術というものすごい付加価値をつけて、藍染屋に藍玉を売っていたのです。
藍問屋というのは、貧乏な藍染屋にお金も貸していました。つまり、金融業も兼ねていたのです。
●愛染明王
熊谷市に「愛染明王(あいぜんみょうおう)」という仏閣がありまして、「愛染さま、愛染さま」と呼ばれています。
この愛染明王を、江戸時代から明治の末まで、毎年1月26日に参拝する儀式がありました。
江戸の染めもの屋を始めとして、藍問屋、藍染屋、藍の栽培農家、藍染を織る人たちが集まって、「愛染明王」に感謝と祈願を捧げるのです。
この愛染明王におまいりすることを「愛染講」といいまして、参拝が終わると人々は帰りに熊谷で山おろし(今でいう精進落とし)をした訳です。
これが熊谷遊郭の始まりだといわれています。
●余談
余談ですが、熊谷の先に、「深谷」という市がありまして、昔は藍の産地として広く知られていました。で、この深谷に、渋沢家という藍問屋があったのですが、この渋沢家は、かの渋沢栄一翁の実家でした。
渋沢栄一は、血気盛んな20歳位の時、近隣の若者を扇動して、高崎城の焼打ちを計画しました。焼打ちを成功させるためには、武器がいる。
そこで渋沢栄一は、武器を調達するため、実家の藍問屋からかなりのお金をくすねました。その金額が、今のお金にして10億は下らないだろうと言われています。
それで、渋沢栄一が実家から持ち出した大金を、渋沢家の会計係は2年間気付かなかったというのです。会計係がボーッとしていたのか、お金がありすぎて気付かなかったのかは分かりませんが…。
こうして横浜まで武器を調達しに出かけた渋沢栄一でしたが、運悪くこれが幕府に発覚してしまいました。
窮した渋沢栄一は、京都の一橋家へ逃げ込んだ。一橋家といえば、十五代将軍・徳川慶喜でも分かるように、れっきとした徳川将軍家。幕府そのものな訳です。